2017年02月14日

聴かずに死ねるか(77)青山ミチ その4 – 風吹く丘で

2013年02月19日 ダイナミック昭和歌謡(14)

 昭和41年11月、ポリドールのラストシングルとなる『風吹く丘で/銀のイニシアル』が発売されたものの、すぐに店頭回収となってしまった。覚せい剤で逮捕されたから店頭回収・・・のように云われているが、実際は、リリース時点ですでに日本クラウンへの移籍が決まっていたのが原因。翌12月、日本クラウンから『情熱の波止場/青いシャンデリア』が出ている。

 店頭回収の憂き目にあってしまった『風吹く丘で』(A面) は、のちにヴィレッジ・シンガーズ『亜麻色の髪の乙女』として大ヒット。最近では島谷ひとみのカバーで有名。

 ダイナマイトボディで声量タップリの青山ミチには不釣合いの曲だと思う人がいるかもしれないが、作詞した橋本淳はテレビの取材に「ミチの栗色の髪を思い浮かべて書いた」と語っていたから、亜麻色の髪の少女は青山ミチのことなのである。

 ちなみに『風吹く丘で』のバックコーラスを担当していたのはトリオロス・チカロス。ラテンをカバーするグループらしいのだが、妙にフォークソングっぽく歌っているので、長い間、ヴィレッジ・シンガーズではないのかと思っていた。つまり、ヒサシを貸してオモヤを盗られるってやつ。

『ああ狂乱の動機! あの青山ミチが再起不能の万引きを!』という記事が雑誌に掲載されたのは49年のこと。同年、結婚していたから『妊娠6ヶ月の身重でなぜ? 離婚に発展か!』とも書かれている。

 49年3月、万引きで現行犯逮捕。53年10月、覚せい剤で逮捕。その結果、青山ミチは芸能界が追放されたのである。数年前、テレビ番組『あの人は今!?』で、娘とふたりで生活保護を受けながらアパートに住んでいるところが放映された。筆者も記憶にあるが、前歯が抜け落ち、極度の肥満体が痛々しかった。でも、も一度ステージで歌えば「あの青山ミチ」が蘇ってくるに違いない。ただし、目をつむって聴かねばならないけれど。

▲青山ミチ『風吹く丘で(亜麻色の髪の乙女)』。昭和41年11月発売。

▲青山ミチ『叱らないで』。昭和43年2月発売。


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2017年02月12日

聴かずに死ねるか(76)青山ミチ その3 – ミッチー音頭

2013年02月18日 ダイナミック昭和歌謡(13)

 昭和30年代後半から40年にかけて、人気女性歌手の筆頭は弘田三枝子。続いて江利チエミ、九重祐三子、梓みちよなどが名を連ねるが、当時の印象としては三人娘(伊藤ゆかり、中尾エミ、園まり)のほうがインパクトが強かった。

 そのころの青山ミチは、西田佐知子には負けるが日野てる子には勝つといった順位。でも歌唱力でくらべれば、対等に勝負できるのは弘田三枝子しかいなかった。どう贔屓目にみても、軍配は青山ミチに上がるけれど。

 このころの大ヒット作『ミッチー音頭』(38年)は、レイ・チャールズの『ホワッド・アイ・セイ』を下敷きにした曲。『まっち(街)に出ようよ♪』に対しコーラスが『はいは〜い』と応える。最後には『歌って踊ってスタミナ付けて〜♪』となる底抜けに明るい和製ポップスだ。音頭ではあるけれど。

 続く『涙の太陽』(40年)は、エミー・ジャクソンのデビューヒット作。いったん青山ミチを聴いてしまうと、後発の安西マリアや田中美奈子の「太陽」は、同じギラギラでもホンモノの太陽光と日焼けマシンの光ぐらいの差を感じてしまう。要するに、エラ・フィッツジェラルドと鈴木重子、あるいは阿川泰子との差と云えばいいのかな。

『週刊平凡』(42年8月31日号)に面白い記事が載っていた。タイトルは<アメリカのおじさん ミチはあのお金で衣装を作りました>。青山ミチが青山のスナック『ミスティ』で食事していたとき、アメリカ人の中年紳士が『キミは、アメリカにいるパパをさがしているんだって? 元気をだしてがんばるんだよ』と暖かいことばをかけながら、20万円が入った封筒をくれたそうだ。その好意にこたえたいと思った彼女は、『そのお金をもとに、新曲<マンハッタン・ブルース>のための衣装として時価三十七万円の金ピカのドレスをつくったが、「この写真を見てくれるとうれしいんだけど・・・」とは、ミチのねがい』。・・・いい話である。

▲青山ミチ『ミッチー音頭』。昭和38年5月発売。


▲青山ミチ『涙の太陽』。昭和40年5月発売。


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2017年02月10日

聴かずに死ねるか(75)青山ミチ その2 – 恋はスバヤク

2013年02月17日 ダイナミック昭和歌謡(12)

 デビューから1年後。『Music Life』誌(昭和38年8月号)に掲載された<私の人気スター評>に青山ミチが登場した。ただし、人気スター礼賛ではない。

 書き出しはこうだ。『去る二月二四日、青山ミチは行方不明でマスコミを騒がせた。人気も登り坂にたった時だけに、びっくりもしたし、いろいろ世間でも取り沙汰された。そして五月十三日に再び失矇事件を起したのには、誰しもア然としたことだろうし、なにかアブノーマルな感じを受けた人も多かったろう』。

 そのあと『彼女の歌について気の付いた点』を述べている。『第一に奔放でよろしい。リズム感とかパンチとか云うものが身についている点。血は争えぬことを感じさせる。おそらくこれからも終戦っ子、昆血児たちが、日本人種の体質を段々とバタくさく変えて行くことだろう。それも結構だ』。

 一見、ほめているようで、そうでないようなビミュ〜なニュアンスだが、筆者が不明なので上から目線ぶりをとやかく云うことはできないのが残念。

 で、またもや苦言。『青山ミチの場合は、特殊なケースとも云える環境に生れて来ているにもかかわらず、非常にカラッとしているのが良い』のだが、『とに角何はともあれ、一寸常規を逸している。子供だと云っても、十四才にもなって白分の行動に責任が持てないと云うのはいささかアブノーマルだと思う。セロニアス・モンクが、ステージの上で踊ったり行方不明になったりするのとは一寸違う』。

 小学校を卒業して2年しかたっていない女の子に対し「アブノーマル」と云い切り、さらにセロニアス・モンクを引き合いに出すとは・・・。

 そして結論。『もし彼女をそう云う気持にさせた責任が周囲にあるとしたら、これも考えなければならない問題だろう。例えば、遊びたい盛りの少女を(体は大きいが)歌手として取り扱う以上、それなりの配慮があっても良いのではないだろうか。しかし一方、当人もそんなに遊びたい盛りなら、歌手を廃業して自由勝手にお遊びなさいと云いたい。やはりどっちかにフン切らなくちゃあ』。

 坊主あたまにするぐらいで許してやればいいのに。日本にホンモノが生まれないのは、陳腐な倫理観を振りかざす評論家の存在が原因なのではないか・・・と思ってしまうのであった。

▲青山ミチ『恋はスバヤク』。昭和39年4月発売。

▲青山ミチ『恋のブルース』。昭和45年9月発売。


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2017年02月08日

聴かずに死ねるか(74)青山ミチ その1 - カモナ・ダンス

 1月、青山ミチが死んだ。享年67。死因は急性肺炎。長い間芸能活動から遠ざかっていたとはいえ、さびしいものだ。そこで哀悼の意を表して、かつて掲載した「ダイナミック昭和歌謡」の11から14までを再掲載することにした。

2013年02月16日 ダイナミック昭和歌謡(11)

 昭和36年(1961年)、横浜市立港中学校1年生八木フサ子は、ジャズ喫茶主催の素人ジャズコンクールで入賞。それをきっかけに、翌年、グラモフォン・レコードからデビューした。「青山ミチ」の誕生である。

『Music Life』誌(同37年10月号)の<さあ、みんなで読みましょうスターの近況です>によると、『グラモフォン・レコードからデビューした混血娘、初めての吹込みでは「カモナ・ダンス」をパンチのきいた見事なフィーリングで歌い担当ディレクターもビクッリ。すでに二枚目のレコードも「Vacation」「可愛いいセニヨリータ」と決定。はやくも11月にはLPも出るそうで将来を期待されている』とある。

 Wikipediaには『父親は在日米軍の黒人兵であった』と書かれているが、当時を知っている人によれば白人系だったそうだが、いずれにしても父親の顔も知らないミチを、音楽雑誌でも当たり前のように「混血娘」と表現してしまうように、周囲から醜い差別やいじめにあったことは事実だったようだ。

 初吹込みの『カモナ・ダンス』は、担当ディレクターがビックリしたように、録音から51年後の現代に生きる私たちでもビックリ。「パンチのきいた・・・」などという陳腐な言い方では表現しきれない超弩級の歌声なのである。新宿ACBでのライヴ録音というふれこみでスタジオ録音。『かっこいい11人〜東京ジャズ喫茶めぐり〜』としてレコード発売された。

▲青山ミチ『カモナ・ダンス』。昭和37年12月発売。

▲青山ミチ『ヴァケイション』。昭和37年10月発売。


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2017年02月06日

聴かずに死ねるか(73)Nina Hagen – Over The Rainbow

 Nina Hagen(ニーナ・ハーゲン)は東ベルリン生まれ。西ドイツに亡命してNina Hagen Bandを結成したのが21歳のとき。以降、80年代のパンクシーンに強烈な足跡を残したパンク姉ちゃん。

 もっともMDR(Mitteldeutscher Rundfunk/中部ドイツ放送)では「パンクの母」と呼んでいたらしいけど。1955年生まれだもんね。

 そんな彼女が歌う『Over The Rainbow(虹の彼方へ)』は、一度見たら、夢にまで出てきそうな塩梅。でも、ドスの効いた歌声に圧倒され、も一度聴きたくなるから不思議。

 かつては日本公演もしたらしいけど、「パンクの婆」でいから再来日してくれないかな。

 元々は、ミュージカル映画『The Wizard of Oz(オズの魔法使い)』(1936年)の劇中歌だった『Over the Rainbow』だが、そのとき歌ったJudy Garland(ジュディ・ガーランド)は14歳。Ninaも可愛いが、こっちも可愛い。

▲Nina Hagen『Over the Rainbow』。バックのLeipzig Big band(イプツィヒ・ビッグバンド)は1999年に結成された若いバンド。

▲映画『The Wizard of Oz』(1939年)のJudy Garland。同年のアカデミー歌曲賞を受賞している。Judyは1969年、睡眠薬の過剰服用により死亡。享年47。

▲Eva Cassidy(エヴァ・キャシディ)『Over The Rainbow』。イギリスBBCラジオから彼女の歌が流れたのは2000年のこと。清らかな歌声にリスナーから問い合わせが殺到したのだが、そのとき彼女はこの世にいなかった。

▲Israel 'IZ' Kamakawiwoʻole(イズラエル・カマカヴィヴォオレ)『Over The Rainbow』。ハワイ州出身のシンガー。340キロを超える巨体からとは思えぬ美声。ちなみに小錦は284キロだった。

▲Straight No Chaser(ストレイト・ノー・チェイサー)『Over The Rainbow』1996年、インディアナ大学で生まれたアカペラグループ。

▲Patti LaBelle(パティ・ラベル)『Over the Rainbow』。Patti LaBelle & The Bluebells(パティ・ラベル&ザ・ブルーベルズ)の中心シンガー。一見、あき竹城のようだが、歌いぶりが見事。Apollo Theater(アポロ・シアター)でのライヴ映像だ。


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